【第3部】データの海と手のひらの知覚(1990〜2026年)

【第3部】データの海と手のひらの知覚(1990〜2026年)

1947年に9バールを実現したガジア、1961年にそれを電化したFaema E61、1970年に温度安定性を完成させたLa Marzocco GS。第1部第2部で辿った歩みは、9バールという定数を産業標準として完成させる旅だった。だが1990年代以降、業界はこの定数そのものを変数として動かし始める。本稿では、サードウェーブの胎動から可変圧力プロファイル機の登場、スマートフォンが抽出データに介入する現代までの36年を辿る。

電子制御の本格化とサードウェーブの萌芽(1990年代)

第2部の終盤で芽吹いた電子制御技術は、1990年代に業界標準として広がった。マイクロプロセッサーによる温度監視、PID(比例・積分・微分)制御、抽出量の自動計測。バリスタの所作の上に、機械側からの再現性が重ねられていく。同時に、米国スペシャルティコーヒー協会(SCAA、1982年設立)を中心に、コーヒーの品質基準と取引慣行をめぐる業界横断の議論が成熟した。

2002年、コーヒー業界の専門家 Trish Rothgeb が、Roasters Guildの機関誌「The Flamekeeper」に「First Wave, Second Wave, Third Wave」と題する論考を発表する。フェミニズムの「波」のメタファーから着想を得て、コーヒー文化の歴史を三つの波として整理する試みだった[1][2]。第三の波(サードウェーブ)は、コーヒーをワインや craft beer のような単一農場・産地ごとの芸術品として扱う運動を指し、シングルオリジン、浅煎り、トレーサビリティ、生産者との直接取引を信条とする。

サードウェーブは日本では「ハンドドリップ文化の到来」として受容されたが、エスプレッソの現場でも並行して進行していた。この時代の業界は、消費者がプロダクトの技術革新についていけないアップルのiPhoneのような構図に入っていた。マシン側の進化速度と、それを評価する消費者層のあいだに、無視できない断層が生まれ始めていたのである。

温度精度の科学化と Synesso(2000年代)

2004年、シアトルで Synesso が創業した。創業者 Mark Barnett は元 La Marzocco のエンジニアで、第2部で見た飽和グループの思想を引き継ぎつつ、各グループのボイラーに個別の PID 制御を載せることで温度精度をさらに一段押し上げた[3]。複数バリスタが同時に異なる豆を抽出する現場でも、それぞれのグループヘッドが独立した狙い温度を維持できる構造である。

Synesso の登場と並行して、2000年に第1回が開催された World Barista Championship(WBC、世界バリスタ選手権)が、現場の科学化を後押ししていた。再現性のある一杯のため、抽出温度・湯量・粒度・タンピング圧・ディストリビューション(粉の均し方)といった全工程の変数を、選手たちが秒単位で記録しはじめる。

私自身、現場で長年 Synesso を使用してきた立場から付け加えると、Synesso のパドルそのものはオンオフのスイッチで、事前にプリセットした3段階の圧力(0/3/9バール)を切り替える機能を担う。後述する Slayer や Strada のような抽出中の無段階のグラデーション制御とは性格が異なるが、プリセット切替には変数を絞ることで再現性を高めるという独自のメリットがあり、温度精度を信頼できる Synesso の上では抽出変数の管理が直感的に運用できる。

0/9から0〜9へ:可変圧力プロファイル革命(2007〜2010年代)

2005年、La Marzocco は Pierre Bambi デザインの GB5 をリリースし、業務用機の現代的フラッグシップを確立した[4]。2007年、シアトルで Slayer Espresso が登場する。Slayer は抽出経路にニードルバルブ(針弁)を組み込み、約1ml/sec の低流量で「スロー・プリインフュージョン」を実現した[5]。豆を9バールで叩き割るのではなく、まず低圧で粉全体を湯で飽和させてから本抽出に移る発想である。

2009年、La Marzocco が SCAA イベントで Strada を発表する。世界トップのバリスタチーム La Marzocco Street Team との6年に及ぶR&Dを経て、抽出中の圧力を任意に動かせる機械として登場した[6][7]。0バールから9バールへゆるやかに昇圧し、終盤で降圧する、といった任意の抽出プロファイルを、機械が再現可能な形で記録・実行する。

これは産業標準としての「9バール定圧」を、定数から0〜9バールの変数へ書き換える革命だった。第2部のFaema E61以降のマシンの大半は、抽出ボタンを押した瞬間に9バールへ立ち上がり、終了で切れる「0/9」の二値で動作する。第1部のスプリングレバー式は、レバーを離すとスプリングの伸縮回復に比例して9〜11バールから0へとなだらかに降下する自然な降圧プロファイルを内蔵していたが、それは機械の物理特性であって、バリスタが設計するものではなかった。Strada と Slayer はこの構造を、バリスタが任意に設計可能な無段階のグラデーションへと書き換えた。[8]

両方式の差は、ドット絵と油絵に例えるのが近い。0/9抽出は均一で、輪郭の明瞭な機械的な味になる。0〜9のグラデーション抽出は有機的で、輪郭の柔らかい一杯になる。両者とも高水準だが、ギーク視点では別の絵画的質感を持つ。両ブランドのキャラクターも、業界のトヨタ的な堅実な高性能を体現する La Marzocco と、ポルシェ的な攻めた革新性を打ち出す Slayer、と並べて見ると性格の差が分かりやすい。

もっとも、可変プロファイル機能は電子制御マシンの専売特許ではない。E61系のグループヘッドを後付けで無段階マニュアルパドル化するキットも存在し、デロンギに代表されるボイラーとスチームバルブが直結したアナログ家庭用機では、抽出中にスチームバルブを開放することで抽出圧を物理的にコントロールすることもできる。アナログ構造の単純さがそのまま自由度になっている例である。

データの海と手のひらの知覚(2015〜2026年)

2015年、シンガポール発の Decent Espresso がクラウドファンディングを契機に登場した[9]。創業者 John Buckman は技術系起業家で、エスプレッソマシンの主要な構成要素を半導体・ソフトウェアで再構成し、家庭用価格帯で業務用級のプロファイル制御を実現した。

Decent の特徴は、機械の動作をすべてスマートフォン側で設計できることである。気圧・流量・抽出量・温度・時間を任意のグラフとして描き、それをアプリから機械に送信する。30種類のプリセットには Synesso・Slayer・Nuova Simonelli といった他社の代表的プロファイルが標準で内蔵され、過去のエスプレッソマシン史をひとつのデバイス上で「ブラウズ」できる構造になっている[10]。一杯ごとに抽出ログがクラウドに記録され、世界中のユーザーがレシピを共有する文化も並行して育った。

Decent はハイエンド業務用機を低価格で再現する傑出したコスパを備える一方、家庭用バイブレーションポンプ由来の動作音は業務環境では明らかに大きい。これはハードウェアの妥協と引き換えに、ソフトウェアと UI で抽出設計の自由度を最大化したアプローチである。

「データの海」と呼ぶべき抽出データの蓄積、そして「手のひらの知覚」と呼ぶべきスマートフォン経由の抽出設計。両者が組み合わさることで、エスプレッソはバリスタの五感の延長としてのデバイスに、根本的に位置づけ直された。

まとめ

1990年代の電子制御普及から、サードウェーブの文化的成熟、Synesso の温度精度、Slayer/Strada の可変圧力プロファイル、そして Decent のスマートフォン連携まで。第3部で辿った36年は、9バールという定数を完成させる旅から、変数として動かす旅への転換だった。ただし、抽出はエスプレッソ全体の10工程以上の連鎖(生豆選び・焙煎・エイジング・グラインダー設定・粒度・タンピング・プリインフュージョン等)の最終工程に過ぎない。最終工程を変数化することは、それ以前の工程の変数研究を相対的に見えにくくするという反作用も伴う。可変圧力プロファイルの探究の先に、再び「0/9の定圧でこそ素材と向き合える」という回帰の声があるのも、現代の地続きの議論である。

よくある質問

サードウェーブはいつ始まったのですか?

「サードウェーブ」という用語は、2002年にコーヒー業界の専門家 Trish Rothgeb が、Roasters Guild の機関誌「The Flamekeeper」で提唱した。フェミニズムの「波」のメタファーから着想を得て、コーヒー文化の歴史を三つの波として整理した試みである。動きそのものは1970年代の Coffee Connection などのロースターから連続しており、2000年代初頭に概念として結晶化した。

Slayer や La Marzocco Strada が実現した「圧力プロファイル」とは何ですか?

抽出中の圧力を、バリスタが任意のグラフとして設計・実行できる仕組みを指す。第1部・第2部までのエスプレッソマシンの大半は、抽出ボタンを押した瞬間に9バールへ立ち上がり、終了で切れる「0/9」の二値で動作した。Slayer(2007年)はニードルバルブで流量を絞ることで、Strada(2009年)は機械内の圧力を直接、抽出中に0バールから9バールまで連続的に動かすことで、それぞれ無段階のグラデーション抽出を実現した。

Decent Espresso のスマートフォン連携は何が新しいのですか?

Decent は気圧・流量・抽出量・温度・時間を任意のグラフとしてスマートフォン側で設計し、それを機械に送信して再現する設計を採用している。Synesso や Slayer など他社の代表的プロファイルを30種類のプリセットとして内蔵し、過去のエスプレッソマシン史をひとつのデバイス上でブラウズできる構造である。一杯ごとの抽出ログがクラウドに記録され、世界中のユーザーがレシピを共有する文化も育った。

9バール定圧の上に積み重ねられた電子制御、温度精度、可変圧力プロファイル、スマートフォンによる抽出設計。第3部で辿った36年の蓄積は、スペシャルティコーヒーから一杯のエスプレッソを取り出す装置を、過去にない解像度まで磨き上げた。Espresso Refill が100mlの瓶に詰めているのは、その到達点の上で抽出された一杯の原液である。代表・内藤豪が独自のプロセスで設計したこの抽出液は、注ぐだけで——あるいは氷の上に落とすだけで——36年間の技術蓄積を家庭でもバーでも取り出すことができる。Yellow、Green、Blue、Red、それぞれ異なる豆の個性を持つ4本。マシン技術が拓いてきた地平の、現代における ER の解答である。

Espresso Refill のコーヒーを見る

出典

  1. Q-Grading and the Origins of Third Wave: An Interview with Trish Rothgeb - Bettr Academy
  2. Third-wave coffee - Wikipedia
  3. Commercial Espresso Machines: S-Series - Synesso
  4. History - La Marzocco Home
  5. Slayer - Leveraging Pressure for Flavor Profiling
  6. Strada Debut @SCAA - La Marzocco USA
  7. La Marzocco Strada - The Coffee Collective Blog
  8. Pressure Profiling in Espresso Machines: What It Is And Why It Matters - Cliff and Pebble
  9. The best home espresso machine - Decent Espresso
  10. Video: The History of Espresso Machines (quickly summarized) - Decent Espresso
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