【第1部】エスプレッソの起源 ─ 蒸気圧から9バールへ(〜1947年)
10代の頃、私は植物学者を志していた。土に向き合う日々の中で出会った地元のロースターの一杯から、コーヒーの種子に「文化と技術が凝縮された一杯」を見た。本稿は、その一杯がいかにして生まれたかを辿る記録である。
産業革命の時代、ヨーロッパの労働者たちは「待たずに飲める一杯」を求めていた。その渇望に応えるべく、技術者たちが行き着いたのが、蒸気の力でコーヒーを押し出すという発想だった。1884年のモリヨンドの特許から、1947年のガジアのスプリング・ピストン式レバー誕生までの63年間。エスプレッソという飲料がいかに人類の科学技術史と地続きで生まれたかを辿る。
産業革命と「速度」への渇望
19世紀のヨーロッパ。産業革命が都市を急速に変えていた時代、労働者たちの生活リズムは工場の機械の速度に従って加速し続けていた。都市のカフェは政治やビジネス、知的議論の交差点として機能していたが、従来のドリップ式や煮出し式の抽出には1杯あたり数分以上の時間がかかっていた[2]。この「速度」への渇望に応えようとした技術者たちは、当時最も先駆的な動力源であった「蒸気」に目を向ける。
1855年、パリ万国博覧会において、エドゥアール・ロワゼル・ド・サンテは蒸気圧を利用して1時間に1,000杯のコーヒーを抽出する巨大な機械を発表し、来場者を驚嘆させた[5]。しかし操作が極めて危険で、過剰な熱でコーヒーが焦げ、苦い飲料しか生み出せなかった。エスプレッソという概念が誕生する前夜、人類はまだ熱力学的な試行錯誤の段階にいた。
1884年トリノ、世界初の特許
真の革新はイタリアのトリノで幕を開ける。1884年、ホテル・カフェを経営していたアンジェロ・モリヨンドが「コーヒー飲料の経済的かつ瞬間的な製造のための新しい蒸気機械」の特許(番号33/256)を取得した[1]。現存する記録上、世界初のエスプレッソマシン特許である。
ただしモリヨンドの装置はホテル・催事用の大量抽出機であり、1杯ずつの抽出(シングルショット)は実現していなかった。それを単杯のレベルへ昇華させたのが、ミラノの製造業者ルイジ・ベゼラだ。1901年、ベゼラはボイラー内の蒸気圧を利用し、着脱可能なポルタフィルターと複数グループヘッドを通じて1杯ずつカップに抽出する特許を取得する。
この特許を1903年に買い取ったデジデリオ・パヴォーニは、圧力解放バルブやスチームワンドを実装し、1906年のミラノ万博で世界初の商業用エスプレッソマシン「Tipo Gigante(Ideale)」を発表した[3]。1杯ずつ「特別に(expressly)」抽出される画期性に、当時最先端だった急行列車(treno espresso)のスピード感を重ねたマーケティングが奏功し、「カフェ・エスプレッソ」の名称が世界に広まる[4]。
蒸気の限界と熱力学の壁
蒸気圧マシンは飛躍的な技術進歩であったが、致命的な味覚上の欠陥を抱えていた。約1.5〜2バールの蒸気圧を生み出すには、密閉されたボイラー内の水温を100℃以上に保つ必要がある。その結果、抽出に使われる湯も高温となり、沸騰水と蒸気が直接コーヒー粉に触れることで成分が熱破壊された。当時のエスプレッソは「非常に濃く、熱いフィルターコーヒー」に近く、しばしば不快な「焦げた」苦味を持っていたのである[6]。
加えて、安全上の課題もあった。19世紀から20世紀初頭にかけて、蒸気ボイラーの破裂事故は世界的な産業問題だった。1905年、米国マサチューセッツ州の靴工場で発生したボイラー爆発事故は58名の死者を出し[8]、欧州でもビール工場などで同様の事故が多発した。これを契機に、ドイツではTÜV(技術検査協会)の前身が、米国ではASME(米国機械学会)によるボイラーおよび圧力容器基準(BPVC)が1914年に制定された。
アール・ヌーヴォー調の美しいコラム型エスプレッソマシンの内部にも、高温高圧の蒸気が密閉されていた。これらの操作には、安全弁の管理や蒸気圧の制御に熟練した「エンジニア(機関士)」の特別な免許を持つ専門人員が必要だったのである[7]。
ガジアのバネ圧式レバーと「クレマ」の誕生
1930年代後半から1940年代にかけて、エスプレッソ抽出における物理的パラダイムは根本から転換する。蒸気による圧力生成から、機械的ピストンによる水圧生成への移行である。1947年、ミラノのバール経営者だったアキッレ・ガジアは、「スプリング・ピストン式レバー機構」の特許を出願した[9]。これは蒸気圧ではなく、テコの原理と強力なバネ(スプリング)の反発力で水圧を生み出すまったく新しい発想であった。レバーを押し下げると直径約50mm・長さ約150mmの重いスプリングが圧縮され、その反発力がピストンを介してコーヒー粉に圧力をかける構造である。
物理学において、圧力 P は力 F を面積 S で割ったもの(P = F/S)として定義される[10]。ガジアのレバー機構は、人間の腕力でスプリングを圧縮し、その反発力をピストンの小さな面積に集中させることで、蒸気圧の限界(1.5〜2バール)を遥かに超える「8〜10バール(平均9バール、大気圧の約9倍)」の抽出圧力を実現した。
そして9バールは、コーヒーに全く新しい現象をもたらす。「クレマ(Crema)」である。高圧下では、焙煎時にコーヒー豆へ蓄積された二酸化炭素が熱水に過飽和状態で溶け込み、抽出液が大気中に出る瞬間に微細な気泡として一斉に析出する。同時に、不溶性のコーヒーオイルが乳化し、気泡を包み込んで黄金色のフォーム層を安定させる[11]。エスプレッソは、ようやくその名にふさわしい液体になった。
まとめ
産業革命がもたらした「速度」への渇望から、19世紀の蒸気式マシンを経て、1947年ガジアのスプリング・ピストン式レバーへ。エスプレッソの誕生は、コーヒー業界の物語であると同時に、人類の物理学と圧力容器工学の発展史そのものでもあった。次回(第2部)では、この9バールが拓いた「クレマの黄金期」と機械工学の完成形、Faema E61へと話を進める。
よくある質問
エスプレッソは誰がいつ発明したのですか?
1884年、イタリアのアンジェロ・モリヨンドが世界初のエスプレッソ特許(番号33/256)を取得した。単杯抽出を実現したのは1901年のルイジ・ベゼラ、商業的に量産・普及させたのは1906年ミラノ万博で「Tipo Gigante」を発表したデジデリオ・パヴォーニである。
「クレマ」はいつから出るようになったのですか?
1947年、アキッレ・ガジアがスプリング・ピストン式レバーマシンを発明し、9気圧という強大な圧力で抽出するようになって以降である。それ以前の蒸気圧マシン(最大2バール程度)ではクレマは形成されなかった。
「エスプレッソ」という名前の由来は?
イタリア語の espresso には3つの意味が重なっている。①「あなたのために特別に(expressly)淹れた一杯」——作り置きが当たり前だった当時、注文ごとに1杯ずつ抽出する画期性を表す。②動詞 esprimere(押し出す・絞り出す)の過去分詞——圧力で成分を押し出す抽出方式そのもの。③「急行列車(treno espresso)」——20世紀初頭の最先端技術であった急行列車のスピード感に重ねたマーケティング上のイメージ。普及期に③が前面に押し出された側面が大きいが、飲み物としての本質的なアイデンティティは①と②にある。
1947年にガジアが拓いた「9バール」という数字は、それから80年が経った今も、エスプレッソという飲料を定義し続けている。Espresso Refill が4種類の100mlボトルに詰めているのは、まさにその9バールでスペシャルティコーヒーから抽出した一杯の原液である。代表・内藤豪が独自のプロセスで設計したこの抽出液は、注ぐだけで——あるいは氷の上に落とすだけで——ウイスキーのように奥行きのある一杯を立ち上げる。Yellow(華やか)、Green(重厚)、Blue(カフェインレス)、Red(果実感)。19世紀から続く速度と圧力の物語の、現代における ER の解答が、この4本のボトルである。
出典
- The Long History of the Espresso Machine - Smithsonian Magazine
- The History Of Espresso Machines - Counter Culture Coffee
- A history of the espresso machine - Perfect Daily Grind
- The History of Espresso - K Brew
- A Brief History of Espresso Machines - Royal New York
- Understanding the history and evolution of the espresso machine - Perfect Daily Grind
- Coffee use in Italy at the end of the 19th century - Accademia del caffè espresso
- History of the ASME Boiler and Pressure Vessel Code - JF Ahern
- The History of Gaggia: Pioneers of Modern Espresso Machines - Espresso Outlet
- Physics in Espresso Coffee Making - EDN Magazine