マキネッタを洗わないとどうなるか——油と雑菌と、味の話
「マキネッタは洗わないほうがいい」——そう聞いたことがあるでしょうか。
結論から書くと、洗ってかまいません。私はマキネッタ(モカポット)を、中性洗剤とやわらかいスポンジで、毎回、全パーツを分解して洗っています。洗ったら、すぐに乾かす。避けているのは食洗機と研磨剤の二つだけです。基本の使い方や私の淹れ方はモカポットの使い方の記事に書いたので、ここでは洗い方の話だけをします。
ただ、この言い伝えを笑って済ませたくはありません。今回この記事を書くために調べていて、自分が知らなかったことが出てきました。「洗うな」と言っているのは、実はこの道具を作った当人だったんです。
「マキネッタは洗わない」は、どこから来たのか
マキネッタという呼び名は、イタリアの定番メーカー、ビアレッティ製の通称として広まったものです。そのビアレッティの公式サイトを見に行くと、アルミ製のモカポットには洗剤を使わないほうがよい、と今も書かれていました。理由も二つ添えてあって、洗剤の匂いが器に残ること、それから洗剤がアルミそのものを侵すこと。ステンレス製については中性洗剤を使ってかまわないと書き分けてあるので、何となくの言い伝えではなく、材質を見た上での指示なのだと思います。
新品をおろすとき、最初の数杯を淹れては捨てる、という習慣もこの文化の一部です。新しいアルミは金属の匂いが出るので、コーヒーの油で薄く覆ってから使い始めるという考え方で、理屈は分かります。ただ、私はやっていません。普通に洗って、そのまま使い始めています。
面白いのは、同じビアレッティの公式ページに、表面に溜まった油は繰り返し使ううちに酸化して焼き付くので取り除く必要がある、とも書いてあることです。二つを並べて読むと、メーカーが言っているのは「洗剤は使うな、ただし湯では毎回洗え、油は溜めるな」になります。英語の原文は "don't use soap" です。石鹸を使うな。それが日本語に渡るときに、「洗わない」まで広がりました。この幅の違いが、言い伝えの正体だろうと思っています。
他の道具は、本当に育っている——では、マキネッタは
それに、洗わない派の背中には、もっと大きな文化があります。道具を育てる、という考え方です。
鉄のフライパンや中華鍋は、使い込むほど黒く艶が出て、焦げつかなくなります。あれは油が「馴染んだ」のではなくて、230℃を超えるあたりで油の分子同士がつながり、プラスチックに近い固い膜に変わっているのだそうです。重合と呼ばれる変化で、この膜は鉄に固着していますから、中性洗剤くらいでは落ちません。だから近ごろは鉄のフライパンも洗剤で洗っていい、という話になってきました。落ちないと分かったからです。
釉薬をかけない土の急須も、洗剤で洗いません。土に無数の細かい孔があって、そこにお茶の成分が入り込んでいくからで、洗剤を使えば洗剤も同じ孔に入って抜けなくなります。
ネルドリップの布はもっと徹底していて、洗剤を使わないだけでなく、乾かしてもいけないことになっています。使い終わったら水に浸けて冷蔵庫へ、長く使わないなら冷凍庫へ。理由もはっきりしていて、乾かすと布に染みたコーヒーの油が酸化して、嫌な匂いを出すからです。
では、マキネッタはどうか。まず温度が届きません。マキネッタの中で起きているのは、せいぜい100℃前後の出来事です。重合には二桁足りない。油は固い膜になれないまま、表面に残ります。それにアルミには孔がないので、染み込む先もありません。器の内側に、ただ載っているだけです。
調べていて一番腑に落ちたのは、ネルの話でした。ネルを扱う人たちは「コーヒーの油は酸化する」と、はっきり言っています。私がこれから書こうとしていることと、同じ前提に立っている。その上で、布は洗えないから水に浸けて酸化を止める、という道を選んだわけです。結論が違うのは、考え方が違うからではなく、器が違うからだと思います。布は洗えない。マキネッタは洗える。洗える器なら、落とすほうを選べます。
では、洗わないでいると何が残るのか
水ですすぐだけでいいのか、とよく聞かれます。
毎日使って、毎回すぐに洗って、分解して完全に乾かして、組み立てずにしまう。これが全部できているなら、水だけでも大きな問題は起きにくいはずですし、ビアレッティが想定しているのもこの使い方でしょう。この四つが生活のリズムに入っている方にとっては、洗剤を使わないというのは正解の一つになります。器の内側がうっすら色づいていくのを眺めながら使うのも、道具との付き合い方として分かる気がします。
ただ、私はこの四つを全部揃えるのが、経験上なかなか難しいです。何日か空くことはありますし、器のどこかにコーヒーのカスが残ったまま、ということもあります。そうやって器に残っていくのは、育った味ではありません。茶渋がそうであるように、酸化した油と雑菌です。
味を育てるつもりで、別のものを育てたくはありません。
どう洗うのが正解か——中性洗剤と、使わないもの二つ
洗剤がアルミを侵すという話も、調べてみると根拠がありました。アルミの表面には薄い酸化被膜があって、これが中身を守っているのですが、この被膜が安定していられるのは、だいたい pH 4.5 から 8.5 のあいだだそうです。中性洗剤はこの内側に収まり、食洗機用の洗剤は pH 11 以上あって完全に外側にあります。同じ「洗剤」という言葉でくくられていても、アルミにとっては別物なのだと思っています。
匂いのほうは、洗剤の選び方で解けます。私が使っているのは、ヤシノミ洗剤です。野菜や果物も洗える中性洗剤で、野菜を洗って食べられるものなら、器に残る匂いを気にする必要もありません。
洗うのは毎回です。使い終わったら、全部のパーツを分解します。ボイラー、フィルター、上のポット、パッキンも外して、研磨剤の入っていないやわらかいスポンジで洗い、そのまま乾かす。パッキンを毎回外すのは、そこが一番残りやすいからです。溝の裏は、水ですすぐだけでは手が届きません。
洗いにくい場所も、正直あります。部品の少ないシンプルな道具ですが、パッキンのまわりと内部のフィルターは、構造上どうしても汚れが溜まっていきます。とくにボイラー側のフィルターは分解できないので、そのままではスポンジが入りません。私はティッシュを捻じ込んで、通路の部分を拭くようにしています。
それと、マキネッタのフィルターとパッキンは消耗品です。替えが売っていますから、無理に洗い切ろうとせず、傷んできたら交換してしまうのが確実だと思います。
交換の目安は、こう見ています。パッキンは、硬くなってゴムらしさが落ちてきたら。上のポット側のフィルターは、経年で変形してきたら。ボイラー側のフィルターは、同じように変形してきたときと、匂いが出るようになったときです。
替えは Amazon で買っています。「3カップ用」「6カップ用」とカップ数の表記があるので、お使いのマキネッタと同じ数字のものを選びます。同じメーカーでもシリーズによって形が違うので、そこも合わせる必要があります。
抽出したコーヒーはすぐに別の瓶へ移して保存しているのですが、その瓶を選んだ理由のひとつも、実は洗いやすさでした。口が広くて、スポンジがそのまま入る。それにガラスは、中身の味がいちばん変化しない素材です。毎日使う道具を選ぶとき、洗いやすさと素材は、思っているより効いてきます。
使わないものが二つあります。ひとつは食洗機で、アルミのマキネッタは食洗機のアルカリ性洗剤で真っ黒になります。pH で言えば、被膜が耐えられる範囲の完全に外側です。同じ理由で、重曹も向きません。もうひとつは研磨剤のついたスポンジで、これは被膜ごと削ってしまいます。
黒ずんでしまったら、捨てるしかないのか
黒くなってしまっても、捨てないでいただきたいです。戻せます。
マキネッタがすっぽり浸かる大きさの鍋に水を張って、水1リットルに対して酢を大さじ2〜3ほど入れ、弱火で10分から20分ほど煮ます。黒ずみは表面に出ているので、浸かっていない部分は落ちません。冷めてから、スポンジでやさしく洗います。酢の代わりに、クエン酸やレモンでもかまいません。
この黒ずみの正体は、アルミが水と反応してできた水酸化アルミニウムが、水の中のミネラルと結びついたものです。体に害はなく、見た目だけの問題なので、慌てず酸の力で戻せば大丈夫です。この器がそもそもなぜアルミでできているのかは、モカポットの歴史の記事に書きました。当時のイタリアの経済政策が関わっています。
ただ、酸も pH でいえば 4.5 を下回る側にあって、被膜を溶かす力があります。だから、短時間で。何度も繰り返したり、長く煮込んだりはしないほうがいいです。
よくある質問
毎回洗う必要がありますか?
私は毎回洗っています。使うたびに、全部のパーツを分解して。何日か空くことがあるなら、なおさら洗っておいたほうが安心だと思います。
使ったあと、すぐに洗うべきですか?
急がなくて大丈夫です。コーヒーの油は植物性なので、冷めてもそれほど頑固にはなりません。むしろ抽出直後の本体はかなり熱いので、触れる温度まで冷ましてからで十分です。冷水にさらせば、すぐ冷めます。
洗剤を使わないと、どうなりますか?
毎回すぐに水で洗って、分解して保管する。ここまでできていれば、すぐに何かが起きるわけではありません。乾き切らなかったとしても、それだけで匂いが出るようなことはないです。見るべきなのは、コーヒーのカスや液が器のどこかに残っていないか。溜まったまま次を淹れることのほうが、ずっと問題だと思います。
毎回、分解して洗う。手間と言えば手間です。
エスプレッソの世界は、どんどんデジタルのほうへ寄っています。抽出を数値で管理して、専用のガジェットが次々に出てくる。モカポットがいいのは、その流れと逆を向いているところだと思います。というより、アナログな道具は往々にしてそうです。
シンプルな道具は、使い慣れるほど手に馴染んできます。手の一部のようになって、直感で扱えるようになる。デジタルの機械も最初から直感的に「デザイン」されてはいるのですが、あれはデジタルの翻訳を一度通しているぶん、実物との差がどうしても残ります。アナログであればあるほど、不思議なくらい、その物と本当につながっている感じがある。
高機能なミキサーがあるのに手ゴネにこだわるパン職人や、温度設定のできない薪窯にこだわるピザ職人。あの感覚と、たぶん同じものだと思います。
分解して、洗って、また組み立てる。この繰り返しもまた、道具が手に馴染んでいく理由なのだと思います。
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